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ホ テル咲都の敷地内のある北緯33度歴史展望台公園からすぐに見える小島で、その昔神様が舞い降りてくる島と崎戸島民から信仰されていた島です。この島は
潮の干潮時には道が現れて歩いて渡れる事もあり、現在では釣りの絶好のポイントとなっています。ただし満潮になると道がなくなり時間帯によっては島で野宿
となる可性がありますので御注意を!
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昔、神が舞い降りる島として信仰されていました |

ホテル咲都駐車場から見た御床島 |

島の岩場ではあおさが絨毯の様に密生しています |

御床島周辺には色んな形の岩があります |

軍艦に見えませんか? |

磯遊びに最適です |

いろいろな船が観れます |

釣りの絶好のポイントです |

ホテル咲都は主に御床島周辺で獲れたお魚を料理しています |
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| 崎戸島の最西端にある展望台で、天気が良いときには五島列島や平戸島が浮かんで見えます。長崎県西海市崎戸町は九州で唯一『夕陽サミット』に登録されていて、日本三大夕日の一つと言われています。ここから眺める夕陽は美しく、撮影に訪れるアマチュアカメラマンも少なくありません。この展望台は北緯33度線に位置し、遠くはカサブランカ、バグダッドに通じています。またこの展望台が面している五島灘は明治維新の時代に坂本龍馬が平戸に船で移動している船中で、有名な『船中八策』を草案した場所だと言われています。北緯33度歴史展望台で美しい風景を楽しみながら、明治維新の激動の時代に思いを馳せてみては如何でしょうか。 |

北緯33度歴史展望台 |

こんな高い場所にあります |

展望台の先は海!! |

TVCMやドラマのの撮影がありました |

夕日の丘 |

夕日がよく似合います |
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浅見光彦シリーズ『長崎殺人事件』 |

浅見光彦シリーズ『長崎殺人事件』 |

浅見光彦シリーズ『長崎殺人事件』 |

浅見光彦シリーズ『長崎殺人事件』 |

浅見光彦シリーズ『長崎殺人事件』 |
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| この施設は、旧日本海軍佐世保鎮守府の特設見張所の中の聴音所として昭和13年(1938年)に建設され、第二次世界大戦終戦までの7年間、海底のスクリュー音等をキャッチする為の施設でした。この地域は戦時中に佐世保の防衛の最前線でしたが、現在でも自衛隊やアメリカ海軍の船が往来していて今でも防衛の要である事が解ります。 |

海から見た施設 |

近影 |

ここから望む夕陽は絶景です |
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| ホテル咲都の敷地内に一つの碑が立っています。何の変哲もない碑ですがそこには長崎新観光百選の地と記されています。長崎県は観光都市と言われ各地の無数
の観光地がありますが、その中で特に百選に選ばれています。長崎にお立ち寄りの際は、是非長崎県が認めたこの地を訪れて観て下さいね。 |

たぬきさんと一緒に |

新観光百選 |

海軍用地 |
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| テルの敷地内には国土地理院が設定した北緯33度0分を示す三角点があります。ということは崎戸町は33度の一番西の果てとなります。 |

基本測量 |

大切にしましょう三角点 |

北緯33度0分の目印 |
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ホテル咲都の入り口のあるたぬきの噴水です。一見すると普通の噴水にしか見えませんが、ため池に溜まった水が赤くなっています。この水は何回掃除して水換えしても、しばらく時間が立つとまた赤くなってしまいます。あまりにも不思議な為にテレビ朝日で放送されている『ナニコレ珍百景』が取材に訪れました。
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確かに水が赤くみえます |

愛嬌のある顔のたぬきさん |

後ろからも1枚 |
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| 秘密の通路をくぐって行くとそこには旧日本海軍の船着き場にたどり着きます。 |

入口はちょっと分かりづらいです |

秘密のトンネルに突入 |

長い長いトンネルを抜けると |

旧日本軍の船着き場跡になります。 |

よく見ると道が見えます |

場所はホテル咲都のすぐ下にあります |
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| 徳川幕府は、寛永12年(1635年)に切支丹厳禁を各藩に布令しました。これによって外国船の渡航、宣教師の潜入、抜荷(密貿易)、海難事故の監視、領民の取り締まりが、さらに厳しくなってきました。大村藩主大村純信は寛永13年(1636年)、外海十六ヵ村に番所を設けました。 やがて外海十六ヵ所の番所を三つに分けました。その時に、それぞれを監督し、藩の通達をさせるために大番所を設置しました。正保元年(1644年)に、崎戸浦にも大番所が設置されました。面高から平島に至る小番所を支配しましたが、特に平島近海では風雨による唐船の漂着や座礁、破船、沈没等が多く、常に密貿易品や積荷の検査等がありました。そのたびに藩には早船を仕立て、あるいは船や乗組員を大村に回航することもあって、大番所の任務も大変でした。 |

今は石垣だけが残っています |

昔はお役人がこの階段を上って仕事をしていたんでしょうね |

建物が残っていないのは残念ですが、今でも雰囲気は当時のままです |
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| 祭神は乙女大明神(クマヨリ姫命)。延宝二年(1674年)の建立で、例祭には正月祭、秋季祭があります。境内にはいたずらカッパを若者が懲らしめた説明が書かれています。2010年3月にはフジテレビ、金曜プレステージの浅見光彦シリーズ『長崎殺人事件』の撮影があり、女優の音無美紀子さんが訪れました。 |

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浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
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浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
音無美紀子さん |
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| 大正4年(1915年)11月10日建立の碑で、崎戸本郷の乙姫神社境内にあります。崎戸本郷出身で日清、日露、日独戦役に従軍した39人の兵科、階級、氏名が刻まれています。日本が、世界の列強に仲間入りするステップともなった三度の戦役に、同地区から従軍して勝利を収め、凱旋した人たちの戦役記念碑です。 |

境内にある日清・日露・日独戦役記念碑 |

大正4年11月10日建立 |

本郷から従軍された人達の階級と氏名が刻まれています |
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崎戸本郷にカッパがいて子供にいたずらをしたり尻(じご)を抜くので村の人は大変困っていた。ある日、畑で草を取っていた若者がカッパに相撲をとらんかと悪さば仕掛けた。若者とカッパは相撲ばとったところが、かっぱの頭の上にある皿の水の水を抜くと神通力を失うことを知っていた若者は知恵と力でカッパはいやという程、大地に叩きつけ右の腕をもぎとられた。カッパは泣く泣く逃げた。その夜以来、腕は返してくれんのう、腕は返してくれんのうと崎戸浦にカッパの悲しい声が聞こえるようになった。哀れを覚えた若者が、これから崎戸浦の子供の尻(じご)を抜くような悪さをすんな、くうやの先の舟継ぎ石が波ですりきれるまでせんと言えと言うと、誓う誓うと答えた。若者からカッパの腕を返して貰うと月夜に光る涙をふきながらなんべんとなく詫びを言って何処ともなく姿を消したとと言う。 〜説明文より
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河童の由来の説明 |

くうやの先の舟継ぎの石と言われています |

この岩が擦り切れたらカッパが出てくるんでしょうか? |
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元は乙姫神社境内にありました。昭和9年9月に防波堤を作った時に安全祈願の為に建立されました。御神体は石座像です。石祠に納め、事代主命(コトシロヌシノミコト)を祀る。例祭は正月二十日。
事代主命とは・・・日本神話に登場する神。別名 八重言代主神、八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)。大国主とカムヤタテヒメとの間に生まれました。葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言いました。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまいました。タケミナカタもタケミカヅチに服従すると、大国主は国譲りを承諾し、事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちもは事代主に従って天津神に背かないだろうと言いました。名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神です。言とも事とも書くのは、古代において言(言葉)と事(出来事)とを区別していなかったためです。託宣神のほか、国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、海と関係の深い。えびすと同一視され、海の神、商業の神としても信仰されています。七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、国譲り神話におけるこのエピソードによるものです。 |

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事代主命(コトシロヌシノミコト)を祀っています |

防波堤建造記念 |

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昭和九年九月吉日 |
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| 長崎県西海市崎戸町は周りを海に囲まれてる島で、海の幸の豊富な地域です。島のあちこちに大昔の海の生物の化石を見つける事が出来ます。得にホテルがある本郷地区の海岸には貝の化石が密集しているのを観察出来ますし、採取する事も可能です。お子様の夏休みの自由研究等の題材にも最適です。 |

遠くから見ると分かりませんが・・・ |

近付くと貝の化石がびっしりと! |

足跡発見!? |
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| 1569年(永禄12)、宮村(元佐世保市)にいた大村三河守純種(すみたね)が、領主・大村純忠(すみただ)に反乱を起こすという事件が起こりました。大村純忠の軍は、後藤貴明(ごとうたかあきら・たかあき)や松浦鎮信からの援軍を得た純種軍に敗れ、小佐々弾正純俊(すみとし)は、葛峠(くずとうげ)の戦いで戦死しました。この機に乗じて松浦氏は、翌年兵船2隻で崎戸の浦に攻め寄せました。大島町東部黒瀬から呼子ノ瀬戸に入る航路は古くから船の交通量が多かったことから、この海域をめぐって松浦氏と大村氏は以前から対立していたといわれています。1年前の葛峠の戦いで父を亡くした小佐々弾正純正は、弱冠18歳でしたが、松浦氏の軍を迎え撃ち、この地を守りました。この戦いを崎戸浦の合戦とよんでいます。郷村記には『永禄13年(元亀元年、1570年)平戸より、人数六十余人、兵船二艘に乗り、崎戸浦に押入る。依之領主、小佐々弾正純正、迎えて崎戸浦において船戦す。純正家僕に常陸という者あり、強弓の精兵なりしか、敵将、荒木内蔵充、末次隼人を射殺す。そのほか、雑兵に至るまで不残討取、一人も生きて帰る者なし。その時、純正十八才、亡父家督相続以後、初めての手柄なり。純忠、感状を与ふ、その文に曰く「今度、平戸兵船二艘、侍雑人まで切捕の段、弾正家督始ての働、神妙の至りなり。殊に常陸が手柄令感悦候也、純忠小佐々弾正との」』と記されています。 |

崎戸浦合戦城跡 |

この浦で元亀元年(1570年)軍勢と激しい舟いくさが行われた |

穏やかな海を見ていると昔激しい戦いがあったと想像出来ません |

崎戸浦は大村藩と平戸の戦の最前線の地でした
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ここで激しい戦いがあったんでしょうね |

小説の題材にもなりそうです |
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| 崎戸町は、江戸時代には捕鯨の町として栄え、鯨組みの納屋場などが数多くありました。そして炭鉱が掘られて以降、明治40年から大正・昭和にかけての間は炭鉱の町として町は栄えました。歴史民俗資料館にはその当時の繁栄を偲ばせる、捕鯨と石炭に関する遺構や道具類が整備・展示されています。 |

炭鉱の入口をイメージ |

崎戸町で見つかったクジラの化石 |

クジラ漁の為の道具を展示 |

炭鉱の採掘現場を再現 |

炭車:石炭を坑内より運び出すのに使用されました |

人車:人員の運搬に使用されたものです |
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| 全身小説家と言われ後世の作家に多大な影響を残した井上光晴氏とその御息女で、崎戸町を舞台にして書かれた『切羽へ』で直木賞を受賞した井上荒野さんの事績を展示しています。 |

全身小説家と言われた井上光晴氏 |

のろしの詩 |

石炭 |

井上光晴・荒野親子 |

作家 井上荒野さん |

井上荒野著、崎戸町を舞台にした『切羽へ』で直木賞を受賞。 |
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| 崎戸町の炭鉱跡を記念して造られた公園です。公園内には崎戸町で育った作家の井上光晴氏の文学碑や三菱鉱業セメント会長、日経連会長で崎戸炭鉱とは所縁のある大槻文平氏の記念碑があります |

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活力の像 |
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炭鉱時代の煙突の上に木が生えています |

炭鉱時代の煙突 |

元炭鉱住宅、今も社宅として現役で使用される位丈夫な建物 |
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崎戸炭鉱跡を示す碑で、大槻文平氏が寄贈。大槻文平氏:昭和3年三菱鉱業入社,労働部長などをへて38年社長。脱石炭,多角化をすすめ,合併により生まれた三菱鉱業セメント(現三菱マテリアル)社長。54年から8年間日経連会長をつとめ,ベア抑制を主張。62年臨時行政改革推進審議会会長。平成4年8月9日死去。88歳。宮城県出身。東京帝大卒。著作に「私の三菱昭和史」。
【格言など】経営者は働く者の生活に責任を持ち,会社を立派に育て,それを次の後輩に渡していくのが責務
碑の背面には、『明治四十年九州炭砿汽船が設立され、福浦坑(三坑)浅坑(二坑)蛎浦坑(一坑)を遂次開坑した。昭和十五年九月、三菱鉱業が同社を合併、ここに崎戸炭坑は三菱の炭坑として発展を遂げ、昭和十八年には1,259千屯を出炭、従業員7500名を超す わが国屈指の大炭坑となった。爾来幾星霜 昭和四十三年三月二十日エネルギー革命の渦中にあって開坑以来、五十九年の歴史の幕を閉じた。閉山と共に多くの人々が、この地を去ったが、往時を偲び、崎戸町の新たな発展を念じて、この碑を建立する。 昭和六十一年十一月 三菱鉱業セメント株式会社 取締役会長 小林久明 崎戸町 町長 喜浦茂男』と刻まれています。
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炭鉱記念公園内にひっそりとたたずんでいます |

三菱崎戸炭鉱跡
三菱鉱業セメント株式会社
取締役相談役 大槻文平 |

背面 |
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| 井上光晴氏は1926(大正15)年福岡県久留米市生まれ。佐世保、長崎県崎戸町などに暮らし、高等小学校を中退後、種々の検定試験に合格、崎戸の炭鉱技術者養成所で数学を教えました。戦争中の青年の姿を描いた「ガダルカナル戦詩集」で作家としての地位を確立。それ以来、被爆者や被差別部落の問題をとりあげた「虚構のクレーン」や、太平洋戦争中の学徒兵を描いた「死者の時」など、種々な社会的問題を主題として戦後社会を根源的に問い続けました。文学碑には井上光晴氏の墓標とおなじ「のろしはあがらず のろしはいまだあがらず」と刻まれています。 |
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| 歴史民俗資料館のすぐ近くにあり、炭鉱時代にダイナマイトが貯蔵されていました。 |

道路のすぐそばにあります |

中を覗いてみたくなりますね |

炭鉱時代をモチーフにした壁画 |
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| 蠣浦(かきのうら)と福浦を結ぶ交通は、崎戸礦業所が開坑して以来、渡し船が唯一のものでした。雨の日も風の日も、船頭が両岸を往復し町の人たちはこれに乗って渡っていました。県と国に長い間陳情を続けた結果、昭和38年10月に崎戸橋の起工式が行われ、着工以来4年余りの歳月と、一億八千百五十万円余の工費を投じて、その美しい姿を湾内に映し出しました。崎戸町始まって以来の大きな架橋とあって、当時の長崎県知事も来町、二組の三世代夫婦、小学生の鼓笛隊、車のパレードによる『渡り初め』が行われました。橋の下では、漁船団が海上パレードを行いました。朱色の大きな虹の橋は、幅員6m、橋長160mで、崎戸町を訪れる方々の目を楽しませています。 |

崎戸橋遠景
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崎戸橋から見える風景
遠くにホテル咲都が見えます |

崎戸橋から見える風景
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1955年(昭和30年)9月、三菱鉱業株式会社(現在の三菱マテリアル株式会社)により、多角経営の一環として設立しました。1995年(平成7年)、ダイヤソルト株式会社へ社名変更しました。九州唯一の大規模製塩工場である崎戸工場です。
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ホテル売店でも販売しています |
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| 明治時代の崎戸町のメインストリート。今は赤レンガが敷き詰められていますが当時は地面がむき出しだったんでしょうね。 |

長崎在住、たぬきの絵の堤けんじ先生画 |

明治時代のメインストリートの入口 |

明治時代にはたくさんの人々で賑わっていたんでしょうね |
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| 大正時代の崎戸町のメインストリート。明治通りの海岸側を埋め立てて出来た道路です。現在は石畳の道路となっています。ちなみに現在は大正通りの海岸側も埋め立てられて昭和通りが出来ています。昭和通りは別名海岸通りとも呼ばれています。 |
 長崎在住、たぬきの絵の堤けんじ先生画 |

大正通り入口 |

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祭神はコナハナサクヤ姫命で、正保年間(1644年〜1648年)の建立で、当初は志自岐大権現とコノハナサクヤ姫命の二神を合祀し、志自岐大権現と称していました。後に志自岐大権現を他に移し、明治21年(1888年)に浅間神社と改称しました。例祭は正祭、夏越祭(千燈篭祭)、秋季大祭(お宮日)となっています。
コノハナサクヤ姫命とは・・・・日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記されます。木の花(桜の花)が咲くように美しい女性の意味です。 |
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約30種のとんぼが生息している湿地帯をまるごと公園にしました。絶滅が心配されているベッコウトンボもここでは観察することが出来ます。池の周囲には、散策を楽しめるように木製のデッキがあり、ここに座ってしばらくトンボの観察をしてみましょう。
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とんぼ公園の入り口です |

ゆっくり散歩 |

いろいろな種類のとんぼが飛んでいるのを観察出来ます |
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| 崎戸町に住む古老の話では大昔の火山が噴火した跡ではないかと言われています。また、大学の教授や研究者の方の話では周辺の状況からみるとはっきりは言えないが、本物の火山が噴火した後である可能性は高いとの事です。これが本物なら規模的には世界一小さな噴火口になるそうです。どなたか詳しい方教えて下さいね。 |

遠くから見たらただの島にしか見えませんが |

だんだん近づくと・・・・ |

確かに何らかの力で盛り上がった様にも見えます |

別の角度で見てみましょう |

確かに盛り上がっていますね |

付近は絶好の釣りポイントです |
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| 浅見光彦シリーズをプロデュースされている小林監督と当ホテルの山下社長は旧年来より親交があり、崎戸町の振興の為に尽力を尽くしている山下社長を観て、その手助けがしたいと言うことで『長崎殺人事件』の撮影が崎戸町で行われました。 |

浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
崎戸ターミナル付近 |

浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
崎戸ターミナル付近 |

浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
崎戸町民の民家
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浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
崎戸町民の民家
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浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
崎戸町民の民家
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浅見光彦シリーズ 『長崎殺人事件』
崎戸町民の民家 |
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